論理センスが高い人は論理的であることを論理的に説明できないから、トフィーが代わりに論理的とは何かを説明する

トフィーです。本日は、周囲の論理的すぎる人たちを観察して得られた知見を書きます。

論理的である、という状態を、センスで成し遂げている人がいる。
いわゆる「地頭が良い」人々だ。彼らは誰に教わったわけでもなく、日常的に論理的な思考を使いこなす。論理的な思考を感覚的に行っているのだ。

このような人々は、「論理センスが高い」のだ。「美的センス」とか「営業センス」とか言うのと同じで、論理に対するセンス(感度)が高い人は存在する。

「論理」と言えば、「言語や記号を用いて、2つ以上の事柄の因果関係から、合理的な結論を導くこと」と言ったことを指す。「センス」と言うと、「言語では説明できない、複雑かつ天性の人間の能力」と言うようなイメージを持つだろう。
論理は言語的帰結によるものなのに、センスは非言語的能力なのだ。言語に対して、両極端な立場を取る「論理」と「センス」が、一人の人間の中に共存しているというのも変な話である。

さて、この論理センスが高い人々であるが、意外なことに、「論理的とはどういうことか」について、論理的に説明するのが下手である。天才的な画家が、美術の教育者に向いているとは限らないのと同様である。論理も美術も、「センス」でやってのけてしまう人は、往々にして他者に教えることが下手である。「教える」とは、言語を使って他者に知識やノウハウを伝達することだ。非言語的能力によって何かを成し遂げる人は、それを言語化する必要がないことにより、他者に伝達する手段を持たない。(もちろん例外もいる)

そこで、論理センスの低いトフィーの出番である。論理的とはどういうことか、について、最近やっとわかりかけてきたところだ。よって、その理解を言語的にシェアしたいと思う。

論理を私の言葉で定義すると、「複数の物事の関係性を明らかにして結論を導くツール」である。例えば「AはBである、BはCである、よってAはCである」、これは間違いなく論理的である。複数の物事(A、B、C)の関係性(A=B、B=C)を明らかにして結論(A=C)を導いているからだ。

論理的な結論を導くには、因果関係を用いることが不可欠である。複数の物事の関係性という「因」から、結論という「果」が導かれる、という構造だからだ。論理的であることを志した瞬間、我々は因果関係の呪縛に平伏さなくてはならない。

しかし、この「因果関係」が曲者であり、論理センスの低い我々にとって鬼門なのだ。例えば、この文章を読んで、どう思うだろう。

"この製品は廃材を使用しているから、同じ値段の他社製品よりも品質が良い。"

「この製品は廃材を使用している」ことと「同じ値段の他社製品よりも品質が良い」ことが、どうして因果関係によって結ばれているのか、ほとんどの人はわからないだろう。いわゆる「論理的飛躍」と呼ばれるものだ。

飛躍した論理の内訳を記載すると、このような文章になる。

"この製品は廃材を使用しているから、原料調達コストが安くすむ。原料調達コストが安いから、製造機材にコストをかけることができる。製造機材にコストをかけることができるから、他社製品と同じコストで高品質な製品を製造できる。他社製品と同じコストで高品質な製品を製造できるから、同じ値段の他社製品よりも品質が良い。"

ここまで書けば、ほとんどの人に因果関係を納得してもらえるはずだ。

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しかし、ここで立ち止まって欲しい。どうして我々は、一文目に納得行かず、二文目には納得するのだろう。
これを理解しないと、「論理的飛躍」の予防はできないはずだ。「論理的飛躍のある文章」と「論理的飛躍のない文章」の決定的な違いがわからないということは、例えば「論理的飛躍のある文章」を自分で書いてしまったとしても、それに気づけないからだ。

論理センスの高い人は、論理的飛躍のある文章・ない文章の決定的な違いをわかっている。ただし、それはセンスのレベルで理解してしまうので、我々論理センスの低い人に対して、言語的な説明は行われない。

そこで、論理センスの低いトフィーが、この問題について解説したい。

実は、二文目も、論理的飛躍は起きているのだ。しかし、この文章を読む人々の間で、ブレない共通認識が形成されることにより、それは「論理的飛躍がない」と合意されているだけなのだ。
例えば、「廃材」という単語を理解している人にとっては、「廃棄する予定だった材料」「本来は捨ててしまってもかまわないようなもの、値段をつけて取引するような代物ではないもの」という認識が一瞬で形成される。
この認識を基に、「原料調達コストが安くすむ」という結論を読むことで、「ああ、値段をつけて取引するような代物ではないものを、わざわざ引き取って使っているんだもんな、そりゃ安くて当然だ」という納得感をもたらすのだ。
こうした共通認識の形成が、全ての文と文の間で起きているため、ほとんどの人にとっては「論理的飛躍のない文章」として受け止めてもらえる。

例えば、もしも読み手が5歳児や日本語を知らない人であったりしたら、単語の意味も、そのバックグラウンドも理解していないことにより、二文目であっても、「論理的飛躍のある文章」として受け止められる可能性がある。
反対に、廃材から高品質製品が生まれる過程を知っている人であれば、一文目も「論理的飛躍のない文章」として受け止められるかもしれない。

論理的に間違っていないはずなのに、どうにも話がわかりにくい、という場合は、話し手と聞き手(もしくは書き手と読み手)の間で、前提となる情報の量的格差が大きく、共通認識の形成ができていない可能性がある。
勉強できる人が、できない人に対して、「どうしてこんなことがわからないのか、わからない」となる場面は、まさにこの「理解するための前提となる情報の量的格差」が原因である。互いに同等の情報量を持っていないことが認識されていないから、相手がどこでつまずいているのか…「どこに論理的飛躍を感じているのか」がわからないのだ。

つまり、論理的である、という状態は、「話し手と聞き手(もしくは書き手と読み手)の間で、共通認識が形成されるレベルの因果関係を明らかにした状態」を指すのである。そのためには、互いの情報の量的格差の度合いを認識し、相手に合わせた粒度で因果関係を刻む必要がある。

さて、ここまで、「論理的である」ということについて、できるだけ細かい因果関係の連続で、説明してきた。読者の皆さんに、「論理的とは何か」が伝われば幸いである。

今まで、論理的であるということを、こんなにも論理的に説明した記事があっただろうか! 相手との共通認識を正しく測る能力があれば、誰にとっても分かりやすい話し方ができるんですね。この意識はわたしにも取り入れられそう! それにしても、論理的思考を感覚的にやってのける人たちがいるのは、一見矛盾していてとても面白いですね。